おでん一年生

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映画『この世界の片隅に』 すずさんの意志と広島へ帰らない理由

この世界の片隅に』を観てきました。感想がなかなか言葉にならない、不思議な映画でした。

 ほんの一部ですが言葉になる辺りを整理しながら、前半に感想、後半に考察「どうしてすずさんは広島に帰らなかったのか」を書いてみます。後半はネタバレありです。

 

懐かしくて羨ましい

 誰かが「超人妻萌アニメ」と形容していたけど、うまいですね。主人公のすずさん、ほんと可愛らしかった。「当時の日常を丁寧に描くぞ」という原作から続く徹底ぶりは、物語にも絵にも声にも動きにも隅々と血を通わせていて、すずさんたちが確かに生きていたことを感じさせていました。目線や指の流れが萌える萌える。

 ぼくは開始10分ほどで泣いていました。悲しみではなくて、懐かしさや羨ましさを感じたのかな。あまりになんでもないシーンでスーッときたようで、後から振り返ってもどのシーンだったか覚えていません。スイカを分ける辺りな気がします。

 監督曰く、制作上の目標は『日常』を描ききること。

 戦争の描きかたも、悲惨さばかりを書くわけでもなく、直接的に反戦を掲げるわけでもなく、世の中は戦争をしていて、たまたましずさんの日常があって、そんなこの世界の片隅にある光景を丁寧に描くことで、回り回って、戦争はやっぱり嫌だと思える映画になっています。また、戦争を差し込むことで、何気ない日常が映える。日常と戦争が互いをくっきりと映し合う構成になっていました。

 そして、その『日常』を閉じずに回収しないエピソードを散りばめたり、余白を感じられるよう描くことで、観客ひとりひとりがじぶんの人生と結びつけて作品が広がる。なるほど、だから感想がみんな違うんだと納得します。

 ぼくが感じたのが懐かしさや羨ましさだとしたら、じぶん自身の何かと結びついたから、とそういうことなんでしょう。

 

 コミカルさと切迫した場面が両立しているので思い出したことがありました。一昨年の、台湾の学生運動です。

 ぼくは親戚や友だちが台湾にいるので、ネットを通してそのときの緊迫感も伝わっていました。ですが、一方で、毎日ピリピリするわけでもなく。Facebookで「私たちを見守ってください!」と必死に他国へと呼びかけている投稿をしたかと思えば、同じ日に同じ人がネタ動画をシェアしてゲラゲラしていたりと、ああ、これがリアルなんだな、分かる気がするな、と新鮮に感じてました。

 この映画の身近さも然りで、すずさん目線の空襲は特に、こちらに通じてくるものでした。あれは原作にない映画のオリジナルみたいですね。あれ観る為だけでも、また映画館に行きたいな。

 

 さて、細部の感想は語りだしたらずっとダラダラできそうなので、ここらでテーマを絞って考察に入ります。

 「どうしてすずさんは広島に帰らなかったか」という視点から、すずさんの大切にしていることや、気持ちの変化を汲み取っていこうと思います。

 

(※以下ネタバレありです。セリフの正確さは欠けているかもしれません)

 

 

すずさんが大切にしていること

 畑の上で跪き 「何も知らんで、ボケーっとしたうちのまま死にたかった」と吐き捨てるクライマックス。この辺りではもうボロボロぼろぼろとしてしまって何がなんだかでしたが、このときぼくはすずさんと同じように世界を見ている気がしました。

 すずさんは「ボケーっとしている」何とも平和な性格です。

 色んなことを引き受け、傷つき、悲しむのであれば、何も考えずに気楽でいたかった。ひとりひとりと亡くなっていくのに、ただ耐えて生き続けることしかできない。じわりじわりと痛むような生活を続けるくらいなら、戦場に向かった方が死ぬときはあっという間でいいじゃないか、といったことを人々が思えて自然な時代ですが、それでも、ボケーっとしたまま生きたかった。

 ただ平和に生きたかった。みんなが笑顔でいられればよかった。

「ボーっとしていること」は実は、すずさんがいちばん大事にしようとしたことの表し方でもあったんじゃないかと思えます。

 彼女が守りたかったものは、この今です。もっというと戦争をしていたとしても今ある分の平穏です。苦手な人は、怒りん坊なお鬼ちゃんであり、けいこさんであり。

 禿げが出来てもどんなに辛くとも「最後まで彼女は広島へ戻らなかった理由」がそこから続いていきます。周りの人にどんくさいと思われつつ、じぶんでもときに呆れつ、それでも流されるだけにぼんやりと生きてきたわけじゃありません。ボケーっと暢気で平和で波に揺られるように生きながらも、彼女は彼女の決断をし続けました。

 

どうしてすずさんは、広島に帰らなかったのか

 あの幼なじみの水原くん。「このおかしな世界で、お前だけはふつうでいてほしい」と願っていたこと。あの台詞、ぼくは好きでした。きっと「彼女への願い」と「世界への願い」「じぶんへの願い」が重なってるんだな、と思いました。

 どこにでもいる、ふつうな人が、ふつうに過ごし続けていてほしいという願い。大好きである、すずにはそのまま平穏で居続けてほしいという願い。この世界が、そういう人を包み込む世界であってほしいという願い。そして、今いる場所をどうにもふつうとは思えない、そんなじぶんが納得できるところに寄り添えたらという願い。

 でも、彼女はそれを退けるんですよね。

 「うちはあン人に腹が立って仕方ない」からと。周作さんが好きになってしまったのだと明かします。なんだかんだで嫁に来てしまって、苦労をしながらもそれ以上に優しくしてもらい、情が沸いてくるようになってしまったと。このとき、すずさん自身が、じぶんの気持ちの気付いて驚いているようでした。

 そこで逆に過去に目をむけると、それまで呉に居続けようとしたのは、好きとは別の理由があったからということに気付きます。

 ぼくは、それは「今いる場所を守り続けること」=「彼女の戦い」だったからなのだと感じました。

 戦争時代、誰しもが各々の形で何かと戦っています。「とにかく今の生活を続けるんだ」「少しでも前を向いていくんだ」という意志こそ誰も口には出しませんが、その気概でたくさんのことが成り立っていたんじゃないかと思えます。

 周作さんのことが好きでも、辛いのなら帰ってもいいですしね(ありゃりゃ)。

 また、「戦い抜くんだ」という意志は、その“時代の意志”かもしれませんが、それは“すずさんの意志”でもあるわけです。それは現代とも同じ。仕事なり、家庭なり、ある意味それらは戦場で、そこでも“やり抜くぞ”というじぶんの意志と結びついてはじめて続いていくわけです。

 だから、周作さんへの好意に気付いても、彼女のその意志は変わりません。

「今、覚めたら面白うない」

 この現実がもしも夢だとしたって、覚めたくない。ここまで続けてきたんだし、これからも頑張りたい。橋の上で、周作さんと二人、お互いの今までとこれからを確かめ合う時間の中で生まれた言葉でした。

 

 しかし、そうかと思えば晴美ちゃんと右手のことがあり、今度はまったく決意が停止します。気力の蛇口を締めてしまったように、ぴたりと意志が途絶えます。誰のせいとはいえない結果とはいえ、いちばん近くにいたショックは相当に大きかったろうと思います。

 結果、彼女は広島へ帰ろうとしました。

 しかし、一歩手前でそれを変えたのは、北条家のみなさんでした。周作さんが認めてくれて、親御さんが認めてくれて、最後にけいこさんが認めてくれて、彼女がその場に留まり続ける理由は一転します。

 そのときから彼女がそこに居続ける理由は、戦いのためでもなく、周作さんへの好意だけでもなく、「迎えてくれる居場所がそこに出来た」からでした。帰る場所になったんです。

 広島に原爆が落とされ、玉音放送が流れ、それまでの戦いの四苦八苦が泡のように消えていくので、一瞬、それまでのすべてが意味を失ったように感じられます。こんな無駄な苦労ならば「うちはボーっとしたままで死にたかった」。

 でも、彼女はまた北条家で、その今を、続けていきます。今まで失ったものを引き受けながら、その人たちの思い出の箱としてじぶんが生き続けていくことを選びます。たとえ、戦争がなくなっても、彼女の戦い、あるいは意志は続きます。この生活を続けていく。

 

「この世界の片隅でうちを見つけてくれてありがとう」というセリフは、その意志を灯す居場所が得られることの幸せを語っているようでした。

 

 

 

後記・・・

 ぼくは家族というものが、どのようにして続いていくのかでよく分からなくなることがあります。「親は乗り越えて、じぶんの選択しろ」というアドバイスをもらったりして、んーと、そうじゃないんんだよなー、と頭をひねったり。

 自ら選び、受け入れられ、そして続いていく。そんな当たり前のことかもしれませんが、改めて気付き、腑に落ちました。また分からなくなるかもしれませんが、そのときはまた映画を観ようと思えます。

 すずさんをはじめ、北条家のみなさんや登場人物に対して、尊敬の念と愛おしさを強く感じる作品でした。