おでん一年生

グツグツいっちゃいましょう

小説『コンビニ人間』と、ふつうの人間のあいだ

 こちら、村田沙耶香『コンビニ人間』のレビューです。ついこないだ2016年上半期の芥川賞受賞作品ですね。

 いやー、おもしろかった。

「あそこの古倉節、好きだわー」「白羽はあいつマジさぁ!」なんて話をポテチ片手に、誰かとぺちゃくちゃしたくなる作品。

 キャラクターが不思議な魅力を持ってました。

 

 キャッチコピーの「ふつうとは何か」が、どれくらい人を誘うかは分かりませんが、読んだ後に「ナルホド…!」と頷きました。

 そう、この『コンビニ人間』のテーマは、“ふつう”なのです。

 幼稚園生でも使えるのに、何かと説明しにくい不思議な単語、“ふつう”。

 このレビューでは、読んでいない人にも、読んだ人にも面白い記事を目指しているので、なるべく作品の説明はしないように、

 それでも、

・変人とは、何が変人なのか

・ふつうの人間とは、何がふつうなのか

・変人とふつうの人間は、どう関わっていけばいいのか。

 という部分に踏み込んでみて、それから『コンビニ人間』を改めて読むと最高だぞ、という感じにしたいと思います。

 

 

 キーワードは『共感力』です。どうぞ。

 

共感性羞恥のおかしな絶望

 最近、とあるテレビ番組で“共感性羞恥”というものが取り上げられた。ぼくはツイッターで知ったが、一時、それなりに盛り上がっているようだった。

 なんでも、共感性羞恥とは、『ドラマの恥ずかしいシーンや他人のミスを見たときに、自分が恥ずかしい思いをしたのだと脳が働いて、あたかも自分が失敗したかのように感じる』ということらしい。

 ドラマだけでなく、お笑いやドキュメンタリーでも、実生活の場であっても同じく。個人差にもよるが、まったく見てられない!、という人もいるのだとか。

 

 おかしなことに、番組では該当者はたったの10%と伝えられたが、「わたしも!」「おれも!」と(ツイッター上で)共感する人は、ゆうに10%を超えていた。

 自称該当者の中には、今までモヤモヤしていた感情に『共感性羞恥』という明確な説明が入ることでスッキリした人もいたし、すべての人がそうでないことにショックをもった人もいるようだった。

「みんな大変なんだなー」、となんとなくの労いをぼくは思った。

 

 しかし、さらには曲解して、「他人の辛さを理解できない人が9割もいるのか…ジーザス」と、優しの欠けた世界に絶望している人もいて、それにはさすがに二重の意味で笑った。

「そんなわけはないだろう」と「あなたは他人の辛さは共有できても、辛さを理解できない感覚は共有できないんですね」と。

 

 感情をじぶんに引き寄せるだけの一方的な共感に溢れた世界の方が、むしろ危ういんじゃない?

 このツッコみは、『コンビニ人間』でも感じるところであった。

 

そもそも共感とは

 共感性羞恥のことを、もう少し知ろうと「共感」について少し調べてみたことがある。

 そもそも、ひとえに共感といっても、広いみたいだ。心理学、社会学、神経科学、それぞれの切り口も違う

 

 こんなサイトも見てみたけど、まあ、ぼくの頭じゃ半分もよく分からなかった。

 だけど、共感性羞恥ついて捉え直してみるためなら、十分ではあるので、お勉強の成果をお披露目しよう。そしてこれは、『コンビニ人間』にもつながってくる。

 勝手に整理すると、こんな感じ。これが共感の分類だ。

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 我ながら、すばらしく良く出来た表である。

 

 ぼくらはふつう、これらをまとめて共感力と呼んでいる。基本的に人間はどれも持ち合わせていて、どの部分が強いかどうかは人による。

 共感性羞恥タイプは、このうち、無意識に『否応なく感じてしまう』力が強いタイプといっていいだろう。あるいは『状況に応じて感じ方を選ぶ』力が弱いタイプかもしれない。 

 感じ方をコントロールできる力が特別強い人は、「まあ、ドラマだし」「ドッキリだって本人も承知の上でしょ」と、割り切ることができる。

 こういった分類は度合いの問題なので、線引き次第では、共感性羞恥タイプが1割を越えることもあるだろう。

 

 『コンビニ人間』の主人公、古倉さんは、『状況に応じて感じ方を選ぶ』『無意識に感じてしまう』力が極めて薄いタイプ。

 小説の中では、「変人」や「病気持ち」扱いだが、ただ他人が繊細に感じる部分をじぶんのように感じることができないだけで、その思考回路は非常に論理的。

 その理由には、彼女の場合、他人の感覚以前にそもそもじぶんの感覚が薄いという一因がある。いろんなことに無頓着だ。

 たとえば、どこか文化の離れた国から来たばかりのふつうの人、違う星から来たばかりのふつうの人、生まれてからずっと寝てたふつうの人も、まずは古倉さんのように振る舞うのだろう。

 みんな、そもそもの前提が違う人、なだけだ。

 それでもそういう人を、ぼくらは軽く“変人”と呼ぶ。

 

ふつうの人間の作られ方

 ぼくが『コンビニ人間』の特に好きなところは、人間がどう出来ているのかを、すっきり、且つ、ユーモアたっぷりに描いているところだ。

 コンビニ人間は、他人の感覚に共感できずも、必死に真似をすることで人間の皮をかぶり、社会の仲間入りを果たそうとする。古倉恵子という人間をつくろうとする。

 ふつうの人間は、そんなことはしない。はじめから人間で、いつまでも人間だ。

 

 …でも、はたして本当に?

 

・ふつうの人間はどのように作られるのか

・何があればふつうの人間なのか

・変人古倉さんが、コンビニ(という狭い社会)だからこそ、18年いてもなれなかったもの

・変人古倉さんが、18年いたからこそ、そこがコンビニ(という狭い社会)だからこそ、ようやくなれたもの

 

 奇妙ながらもとことん現実的な、このあたりの展開は不気味で最高だ。

 

 物語のラストで彼女は、彼女が本当に欲していたもののありかに、気づく。

 生まれて初めての声を聞く

 全然、泣くような小説じゃないんだけど、あとでふと、その月日の意味を思うと、まじでジーンとくる。

 

 

分かりあえない、あいだを見つめる

 今回、ぼくがこんな読み方をした理由となる、いわば元ネタをふたつ。

(人間は、こうしてつくられますね!)

 

「障害というのは、少数者と社会の間にあるズレのことです」

 の一言がすべて。

 

 そして、演劇作家の視点で、コミュニケーションのあり方を問う、平田オリザさんのこちらの名著。

 ぼくの素晴らしき表にある『状況に応じて感じ方を選ぶ』『無意識に感じてしまう』『相手の感じ方を推測できる』のうち、

 コミュニケーションにおいて一番大事な力ってどれ?って疑問が、スッキリする。

 

 共感性羞恥の話をはじめにしたのも、これらの視点が欠けていた発現を多く耳にしたからだ。相手の気持ちがじぶんのように感じられないことは、冷たい社会でも何でもない。

 むしろ、その欠落や違いを否定した社会の方が、人を排除することになる。

  

 分かり合えないことから、間を見つめること。つないでいくこと。

 そこからスタートすると、古倉さんには、ふたつのハッピーエンドがあったように思う。

 彼女がそのうちひとつを選べて本当に良かった。

 だけど、社会全体にとっては、もうひとつのハッピーエンドしかなかったのでは、とも思う。