おでん一年生

グツグツいっちゃいましょう

映画『この世界の片隅に』 すずさんの意志と広島へ帰らない理由

この世界の片隅に』を観てきました。感想がなかなか言葉にならない、不思議な映画でした。

 ほんの一部ですが言葉になる辺りを整理しながら、前半に感想、後半に考察「どうしてすずさんは広島に帰らなかったのか」を書いてみます。後半はネタバレありです。

 

懐かしくて羨ましい

 誰かが「超人妻萌アニメ」と形容していたけど、うまいですね。主人公のすずさん、ほんと可愛らしかった。「当時の日常を丁寧に描くぞ」という原作から続く徹底ぶりは、物語にも絵にも声にも動きにも隅々と血を通わせていて、すずさんたちが確かに生きていたことを感じさせていました。目線や指の流れが萌える萌える。

 ぼくは開始10分ほどで泣いていました。悲しみではなくて、懐かしさや羨ましさを感じたのかな。あまりになんでもないシーンでスーッときたようで、後から振り返ってもどのシーンだったか覚えていません。スイカを分ける辺りな気がします。

 監督曰く、制作上の目標は『日常』を描ききること。

 戦争の描きかたも、悲惨さばかりを書くわけでもなく、直接的に反戦を掲げるわけでもなく、世の中は戦争をしていて、たまたましずさんの日常があって、そんなこの世界の片隅にある光景を丁寧に描くことで、回り回って、戦争はやっぱり嫌だと思える映画になっています。また、戦争を差し込むことで、何気ない日常が映える。日常と戦争が互いをくっきりと映し合う構成になっていました。

 そして、その『日常』を閉じずに回収しないエピソードを散りばめたり、余白を感じられるよう描くことで、観客ひとりひとりがじぶんの人生と結びつけて作品が広がる。なるほど、だから感想がみんな違うんだと納得します。

 ぼくが感じたのが懐かしさや羨ましさだとしたら、じぶん自身の何かと結びついたから、とそういうことなんでしょう。

 

 コミカルさと切迫した場面が両立しているので思い出したことがありました。一昨年の、台湾の学生運動です。

 ぼくは親戚や友だちが台湾にいるので、ネットを通してそのときの緊迫感も伝わっていました。ですが、一方で、毎日ピリピリするわけでもなく。Facebookで「私たちを見守ってください!」と必死に他国へと呼びかけている投稿をしたかと思えば、同じ日に同じ人がネタ動画をシェアしてゲラゲラしていたりと、ああ、これがリアルなんだな、分かる気がするな、と新鮮に感じてました。

 この映画の身近さも然りで、すずさん目線の空襲は特に、こちらに通じてくるものでした。あれは原作にない映画のオリジナルみたいですね。あれ観る為だけでも、また映画館に行きたいな。

 

 さて、細部の感想は語りだしたらずっとダラダラできそうなので、ここらでテーマを絞って考察に入ります。

 「どうしてすずさんは広島に帰らなかったか」という視点から、すずさんの大切にしていることや、気持ちの変化を汲み取っていこうと思います。

 

(※以下ネタバレありです。セリフの正確さは欠けているかもしれません)

 

 

すずさんが大切にしていること

 畑の上で跪き 「何も知らんで、ボケーっとしたうちのまま死にたかった」と吐き捨てるクライマックス。この辺りではもうボロボロぼろぼろとしてしまって何がなんだかでしたが、このときぼくはすずさんと同じように世界を見ている気がしました。

 すずさんは「ボケーっとしている」何とも平和な性格です。

 色んなことを引き受け、傷つき、悲しむのであれば、何も考えずに気楽でいたかった。ひとりひとりと亡くなっていくのに、ただ耐えて生き続けることしかできない。じわりじわりと痛むような生活を続けるくらいなら、戦場に向かった方が死ぬときはあっという間でいいじゃないか、といったことを人々が思えて自然な時代ですが、それでも、ボケーっとしたまま生きたかった。

 ただ平和に生きたかった。みんなが笑顔でいられればよかった。

「ボーっとしていること」は実は、すずさんがいちばん大事にしようとしたことの表し方でもあったんじゃないかと思えます。

 彼女が守りたかったものは、この今です。もっというと戦争をしていたとしても今ある分の平穏です。苦手な人は、怒りん坊なお鬼ちゃんであり、けいこさんであり。

 禿げが出来てもどんなに辛くとも「最後まで彼女は広島へ戻らなかった理由」がそこから続いていきます。周りの人にどんくさいと思われつつ、じぶんでもときに呆れつ、それでも流されるだけにぼんやりと生きてきたわけじゃありません。ボケーっと暢気で平和で波に揺られるように生きながらも、彼女は彼女の決断をし続けました。

 

どうしてすずさんは、広島に帰らなかったのか

 あの幼なじみの水原くん。「このおかしな世界で、お前だけはふつうでいてほしい」と願っていたこと。あの台詞、ぼくは好きでした。きっと「彼女への願い」と「世界への願い」「じぶんへの願い」が重なってるんだな、と思いました。

 どこにでもいる、ふつうな人が、ふつうに過ごし続けていてほしいという願い。大好きである、すずにはそのまま平穏で居続けてほしいという願い。この世界が、そういう人を包み込む世界であってほしいという願い。そして、今いる場所をどうにもふつうとは思えない、そんなじぶんが納得できるところに寄り添えたらという願い。

 でも、彼女はそれを退けるんですよね。

 「うちはあン人に腹が立って仕方ない」からと。周作さんが好きになってしまったのだと明かします。なんだかんだで嫁に来てしまって、苦労をしながらもそれ以上に優しくしてもらい、情が沸いてくるようになってしまったと。このとき、すずさん自身が、じぶんの気持ちの気付いて驚いているようでした。

 そこで逆に過去に目をむけると、それまで呉に居続けようとしたのは、好きとは別の理由があったからということに気付きます。

 ぼくは、それは「今いる場所を守り続けること」=「彼女の戦い」だったからなのだと感じました。

 戦争時代、誰しもが各々の形で何かと戦っています。「とにかく今の生活を続けるんだ」「少しでも前を向いていくんだ」という意志こそ誰も口には出しませんが、その気概でたくさんのことが成り立っていたんじゃないかと思えます。

 周作さんのことが好きでも、辛いのなら帰ってもいいですしね(ありゃりゃ)。

 また、「戦い抜くんだ」という意志は、その“時代の意志”かもしれませんが、それは“すずさんの意志”でもあるわけです。それは現代とも同じ。仕事なり、家庭なり、ある意味それらは戦場で、そこでも“やり抜くぞ”というじぶんの意志と結びついてはじめて続いていくわけです。

 だから、周作さんへの好意に気付いても、彼女のその意志は変わりません。

「今、覚めたら面白うない」

 この現実がもしも夢だとしたって、覚めたくない。ここまで続けてきたんだし、これからも頑張りたい。橋の上で、周作さんと二人、お互いの今までとこれからを確かめ合う時間の中で生まれた言葉でした。

 

 しかし、そうかと思えば晴美ちゃんと右手のことがあり、今度はまったく決意が停止します。気力の蛇口を締めてしまったように、ぴたりと意志が途絶えます。誰のせいとはいえない結果とはいえ、いちばん近くにいたショックは相当に大きかったろうと思います。

 結果、彼女は広島へ帰ろうとしました。

 しかし、一歩手前でそれを変えたのは、北条家のみなさんでした。周作さんが認めてくれて、親御さんが認めてくれて、最後にけいこさんが認めてくれて、彼女がその場に留まり続ける理由は一転します。

 そのときから彼女がそこに居続ける理由は、戦いのためでもなく、周作さんへの好意だけでもなく、「迎えてくれる居場所がそこに出来た」からでした。帰る場所になったんです。

 広島に原爆が落とされ、玉音放送が流れ、それまでの戦いの四苦八苦が泡のように消えていくので、一瞬、それまでのすべてが意味を失ったように感じられます。こんな無駄な苦労ならば「うちはボーっとしたままで死にたかった」。

 でも、彼女はまた北条家で、その今を、続けていきます。今まで失ったものを引き受けながら、その人たちの思い出の箱としてじぶんが生き続けていくことを選びます。たとえ、戦争がなくなっても、彼女の戦い、あるいは意志は続きます。この生活を続けていく。

 

「この世界の片隅でうちを見つけてくれてありがとう」というセリフは、その意志を灯す居場所が得られることの幸せを語っているようでした。

 

 

 

後記・・・

 ぼくは家族というものが、どのようにして続いていくのかでよく分からなくなることがあります。「親は乗り越えて、じぶんの選択しろ」というアドバイスをもらったりして、んーと、そうじゃないんんだよなー、と頭をひねったり。

 自ら選び、受け入れられ、そして続いていく。そんな当たり前のことかもしれませんが、改めて気付き、腑に落ちました。また分からなくなるかもしれませんが、そのときはまた映画を観ようと思えます。

 すずさんをはじめ、北条家のみなさんや登場人物に対して、尊敬の念と愛おしさを強く感じる作品でした。

andymoriのアルバム『革命』がめっちゃ好きになった

 お久ぶりです。本日は、andymoriという今はなきロックバンドのCDアルバム<革命>について書いていきます。

 

 

 ぼくにとってandymoriは、初めて好きになったバンドであり、思い入れがあります。これまでこのブログでは、一見ものばかり書いていました。好きなものほど他人に読んでもらうのは難しいものですが、自己満足ここにありと不敵の笑みを浮かべ、楽しく(怪しく)書きました。

 こんなアルバムの聴き方があるのだなあ、とでもして頂ければ幸いです。

 

 ではでは、andymoriがどんなバンドかは敢えて説明せず、まずは3rdアルバム<革命>のタイトルをざっと見てみましょう。いざ、何か伝わりたまえー。

 

<革命>

01. 革命
02. 楽園
03. Weapons of mass destruction
04. ユートピア
05. スーパーマンになりたい
06. ダン
07. ボディーランゲージ
08. Peace
09. 無までの30分
10. Sunrise&Sunset
11. 投げKISSをあげるよ

(ちなみに本記事では、アルバム<革命>、曲『革命』と書き分けています。読む上で気を払う必要はないです)

 

「はっきりとした単語が並んでるな」
「奇をてらうタイプではなさそうだ」
「頭は良さそう」
「でも、なんか可愛い」
 うんぬん。

 これだけでも勝手に想像できて、楽しいもんです。ぼくがタイトルを並べて、アルバムとバンドのことを汲み取るようになったのは、この<革命>から。バンドには「曲をつくる」作業だけではなく、「アルバムをつくる」作業があることをリアルに感じた瞬間でした。

 

 さて、今回の記事ではandymoriの唄う"革命”とはどんな感じなのか、を主に曲の歌詞とアルバムの構成から想像していきます。革命をテーマにした作品として追ってみます。

 そして、ぼくは最近まで、その革命とは“儚い一種の輝き”のようなものなのかな、と上のタイトル順を眺めて思っていました。

 ですが、どうも違うのでは…?

 むしろ"常にある輝き”を灯しているのでは?

 と思い直すことがあり、筆者にとってのこの記事は、その一連の気づきを自ら確かめながら、改めて<革命>が知れた気になったし、ひとつひとつの曲が好きになったよ! やー、好きになっちゃったよ! と自慢するものになってます。

 

 

革命とは“一瞬の輝き”か?

 それではいささか遠回りですが、面白い勘違いだと思うので、まず“儚い一種の輝き”と感じた理由から紹介します。

 アルバムのはじめと終わりに、ご注目。『革命』で旗揚げ、『投げKISSをあげるよ』でおしまいですね。

 この『投げKISS~』は、「大丈夫ですよ」「心配ないですよ」というフレーズが繰り返される不気味な曲です。

 

11. 投げKISSをあげるよ

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歌詞はこちら

「ケータイ電話を落っことして 財布を落っことしたって 大丈夫ですよ」
「問題ないですよ 昨日のことも さっきのことも 全部忘れても」
「フられたって 何にも考えなくていいですよ」

 そういって、投げKISSをくれるわけです。不気味です。ちょっと見悪い奴ではなさそうだけど、その気にさせたらヤバい奴臭がします。

 元気なときは「大丈夫なわけないやろ!」とツッコんでみたり「なんや、変な歌詞」で気にも留めないわけですけど、たとえば、まじでフられたときとか聞いてみてください。平らに繰り返されるフレーズに痛みがほんの少しづつですが、浄化されていくのを感じます。

(ちなみに、ぼくのケータイではこれだけ再生回数が飛び抜けていて2000回はいっていて。一日ずっと外へ出ずエンドレスリピートしたりなんてこともありました。ほんとね。単純だから「大丈夫だよ」と繰り返されると、そんな気になってくるんですね。もはや念仏です。おかげ様でぼくは大丈夫です。大丈夫です。大丈夫。大丈夫。)

 

 

 はい、つまりですが、このアルバムでは、『革命』を謳うことで世界を変えようと気概よく始まりながら、『投げKISSをあげるよ』で、今の存在をそれだけで肯定するという、はじめと終わりで一見落差のある構成になっているんですね。

 その間にある曲タイトルをざっくり見ていても、前半は『楽園』、『Weapons of mass destruction(大量破壊兵器)』、『ユートピア(理想郷)』と、スケールのおっきな世界の話を続けていたかと思えば、『ダンス』『ボディランゲージ』くらいから、じぶんと周りの人との身近な日常を包み込んでいくようです。少し歌詞を眺めてみても、革命というくせに変わらないものや、届かないものばかりを歌うんですね。革命と聞いて感じる若いドキドキ感は、ときたまにしか感じられず。

 さらに『無までの30分』では、色々考えるのは30分まで、一瞬の夢に出会えるのは30分まで、とまるでこのアルバム11曲29分(めっちゃ短いんです)の後には、もうすべて無くなるんだ、と言っているように聞こえました。

 極めつけに『革命』の歌詞には「夢を見るんだ」とある。ああ、そっかって。もう夢なのか、と。

 儚いけど、だからこそ大切なのかなー、なんてじぶんを納得させたりしてました。なんか寂しいな、と思いつつ。

 でもしかし、全然分かっていなかった。その、もう一歩先があるんじゃないか、と改めて追っていくきっかけも『革命』の歌詞でした。


 少し遠回りしましたが、ここからその誤解を解いていきます。

 変わらないものや届かないものを、歌わなければいけない理由がそこにはあります。先のことよりも、昔のこと、目の前を見つめるべき筋合いがありました。

 革命が“儚い一瞬の輝き”ではなく、"常に寄り添う輝き”であるために。

 

 

革命とは“いつでも誰にでも輝くもの”

 

01. 革命


andymori "革命"

歌詞はこちら  

「100回 1000回 10000回叫んだって 届かない想いは 100日 1000日 10000日たった後で きっと誰かの心に風をふかせるんだ」

 この曲は、メンバー同士で、革命のイメージについて共有しあいながらつくっていったそうです。

 革命はあるとき突然起きるのではなくて、ずっと昔の誰かの声が何かが続いてきたものなのだと。歴史で習うのは、あるとき一気に盛り上がったところだけ。そのひとつづきの流れを風に例えて、追いかけようとした歌が『革命』です。

 そしてそれは「誰もが夢みて 今夜祈る」「風を待つんだと 誰もが胸躍らせる」ものなんですね。

 つまり、このアルバムでの“革命”は、すべての人にある“日常の中での希望”です。誰かの心にいつか吹かせることもできる風であり、あるときじぶんに吹いてくる風です。

 世界を変えようとしながら、その今を包みこむようなもの(先ほどそのふたつを落差があることと書きましたが、実はひとつづきだった!)が“革命”であり、それを背骨に、その日常と希望の間を他の曲たちが血肉として埋めているんだ、と気づきました。だからこそ、日常の中に届かないものや変わらないものがあるなら、それも包まなくてはいけない。

 気づいたというか、そう思うと、他の曲のひとつひとつの見方まで変わってきたんです。

 

 それでは一緒に、“革命”という希望の光を胸に灯しつつ、改めて一曲一曲を聞いていきましょう。諦めに思えた曲の中にも、たしかな光が差すのが見えてくるはずです。

 

 

02. 楽園

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 「無表情のピーターパン 不感症のシンデレラ 言葉を忘れてしまったミッキーマウス

 いきなり末期感がすごいです。「血を血で洗う」わ、「死神と天使と手をつなぐ」わ、なんでもありなこの「まっさらな大地」には「さえぎるものはない」。

 そういう“どこにでも行けるよう”なのってむしろキツいんですよね。裏返せば、何にも感じられてない、信じきれていないってことだから。

 でも意義が分からなくなり、息が詰まる中、ただ「南へ」旅しに行こう!と指針を示したのがこの『楽園』です。

「南」とはエネルギッシュな生命力の塊でしょうか。生きることを目指すんですね。「力のない愛する人の言葉を聞く度に 俺はね 死ねるよって思うのさ」と言いつつ、生きることを選ぶとの宣言。さらには「潜って」「南へ」を何度も繰り返すことで、生き続けるためには“繰り返し生きなくては”いけないんだな、とも感じます。日本語に「生き生き」という言い方があるのと、同じでしょうか。

 ついでにいうと1stの『Life is party』という曲では「楽園なんてないよ 楽園なんてあるわけないよ」と歌ってるんですね。あくまでひとつ目指す先、シンボルのようです。でも届くかどうかは二の次であっても、目指せるものがあるだけで人間は元気になったりしますよね。

 

 

03. Weapons of mass destruction

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  今度は「東へ」「東へ」というフレーズが出てくるので、どっちだよ!とツッコミたくなります。でも、これは「東へ進もう」ではなく「東に進んでいる」ということを確認するものだと思います。

 タイトルは訳すると『大量破壊兵器』。いつかの本人インタビューによると、イラク戦争があったときに壮平くんが「みんな寿命という大量破壊兵器で死ぬのに、なんでわざわざ早まって殺し合ってるの?(意訳)」と思ったのが、曲のはじまりです。東とは、大量破壊兵器に例えた太陽の上るところの東であり、アメリカから見たイラクの東でしょうか。
 なんで東へ進んでんだ?と世界を少し見つめてみても「なんだかな」「哀れ」だなと納得できない。それだけ世界を思えば歪なのに、人を想えば、でも嫌いにはなれず。その上で、じぶんとしては、世界がうまくいっても悪くてもまあやることはあるよという。

「ふざけあえば分かるはず くだらないこと 変わらないこと」

 ぼんやりと世界を見た上で、じぶんの位置づけと疑問を表した歌なのかな、とぼくは受け取っています。

 特に何か結論や主張が言えるわけでなくとも、こういう世界を知ろうとする姿勢が実は進むためには一番大事だったりしますよね。根気もいることでしょう。

 

 

 01〜03をまとめると、『革命』が目の前にどこまでも広がる平野に気づかせる歌だとしたら、『楽園』はそこに立ち道を示す看板、『Weapons〜』は、現在地点と歩き方を表しているように思えます。

 これだけ揃えば、ひとまず安心。ぼんやりとだけど、進むべき方の光は見えている。ならば、もっと外れに寄り道したって、底の方へと深く潜ったって、きちんと戻ってこれるような気がしますよね。

 以降の曲では、より心と身体とじぶんの内側に潜っていきます。そしてそれが、家族や仲間に対して開いていくことになるのを見ていきましょう。

 

 

04. ユートピア

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  これはもう愛おしいなっ!

「一人きり部屋のすみで生まれた情熱が 誰かの声を聞いたんだ 確かに聞いたんだ」というのがいいですね。それも革命の風の声なのかな。

『andyとrock』という1stアルバムで歌っていた孤独感を思うと余計にくるものがあります。

 

 

05. スーパーマンになりたい

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 「スーパーマンになりたい」「美女とやりまくりたい」と連呼しちゃうやつ。素直になったら、こうなっちゃいましたー!ってやつですね。

 おっけ!本当に願ったのなら、本物だ!

 

 

06. ダン

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  愛や死といった漠然としているおっきなものに向かって「いつも通りのそのテンションで 肩の力を抜いて」率直に身体で応えていくという歌です。ダンスって、日本の人のほとんどにとって馴染みないものですけれど、「懐かしい」とか「心に響く」とか「さすらうまま」でいいんですね。そして、愛や死に対しても、そういう気楽さで向き合っていいのかもしれない。

 メロディもゆったりとしたもので、いつも通りのテンションってなるほどこんな感じか!と、ぼくは逆を気づかされました。

 

 

07. ボディーランゲージ

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  これはタイトルそのまんま。言葉を越えた本能的な感覚を、リズムに落とし込むんだような曲ですね。

 言葉の意味を聞かせる歌もあれば、『ボディランゲージ』はただ音としての言葉を奏でているようで、面白いもんです。なんか原始的。声もひとつのボディランゲージ。『ダンス』と同じで、ハイテンションとは違うんですが、音楽に鼓動が乗ってきます。

 ちなみに壮平くんは、歌詞とメロディを同時につくるらしいのですが(片方から片方を合わせてつくる人の方が多い)、そういうつくり方だからこそ、とも思える一作です。

 

 

08. Peace

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 歌詞全文載せたいくらいに、率直な言葉が愛おしい。

「大好きなCDをかけて あの頃に帰ろう」からはじまり「こんな儚い世界の中に信じた歌がある こんな儚い世界の中に信じた人がいる」で閉じます。

 Peaceは平和と訳すよりも、平穏や安心と捉えた方が合うでしょうか。届かなかった想いもあるわけですが、それでもその信じた何かを見つめ直そうという、救いのような歌です。

ユートピア』や『スーパーマンになれたい』と同じく、じぶんの気持ちに素直になることで、人は近づき合えるようになるのだな、ということが分かる気がします。

 

 ぼくは、こんな風に、感謝や愛に毎日素直になれていることは難しいし、必要でもないと思ってます。

 “きれいごとではやっていけない”は諦めではなくて、それはむしろ何か誠実さを表すときもあるだろうし。もっと単純に、心って当てにならないことも多いし。だから、シンガーが歌うときにも100%想ってくれてなくたっていい。

 それでも、こんな風に歌として出来上がり、詞にするとき“強く信じた”何かがあるのならば、その瞬間をまた信じることができるんじゃないのかな、って希望を持って聴くことがでるんですよね。ありがたや。

 

 

 04〜08では、壮平くんの個人的な感覚に潜りながらも「伝わること」に目が向けられているように思います。どこまでも潜った末に、家族や友人、恋人、仲間が脳裏に浮かんできたのを見てると、聴き手のじぶんの周りのことも振り返りたくなります。

 風の吹く瞬間って、そんな身近な至るところにあるのかもしれません。

 

 

09. 無までの30分

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 おそらく、この曲はいちばん潜った末に出てきた歌なんじゃないでしょうか。というか、潜りすぎたときに出てくるような…。

『Weapons〜』がじぶんの外の現在地を見つめた歌なら、これはじぶんの内側の現在地をとことん見つめた歌のよう。だから受け取り方は人それぞれ。ぼくにとっては、何しても「30分だけ」ってつもりでいられるのは、超ありがたいです。とかいって、みんなそうだよね?

 

 

10. Sunrise&Sunset

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 太陽は上って、暮れて、とその日々の繰り返しを歌ったもの。歌詞ぺりぺり貼付けちゃいますが「嘘つきは死なない 争いは止まない 欲しいものは尽きない 悲しみは消えない」と悲観的かと思えば、でも「僕も君も分かってるんだよ そのままでいてよ」「くるくると踊るように暮らしながら歌っているなら 僕も歌うから」と、その繰り返しを認めて寄り添っているんですね。

 ”革命”とは、現状の否定、このままではないどこかへ!という気持ちが強く出るような言葉です。でも、日常はそんなに変わるわけじゃない。ぼくもその日常を繰り返すよと。

 でもね、と言うように最後に置く言葉が良いんですよね。

「君からの手紙を 気にしてないよの一言を 忘れたあの歌の続きを Sunrise&Sunset ずっと待っているんだよ」

 

 

11. 投げKISSをあげるよ

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  こちらは先ほど申し上げた通りの曲です。「ブラックホールの向こう側に 投げKISSをあげるよ」と言ったからには本当に飛んでくるし、ブラックホールの向こう側からだからこそ、ありがたいんです。ええ、何言っているのか分からないでしょう。そうでしょう。

 好きな子にフられたときにでも、またいらしてください。いつでも再生しやすいように、同じ記事に二つも動画を載せてますから。ほらほらほら。

 

 

 この09〜11は、これまで以上に、今このじぶんたちを受け止めてくれるような曲が並んでいます。そして、そこにある日常の肯定は、気持ちの支えのようなもの。止まっても、繰り返しの日々でも、絶望しても、大丈夫だよ、いいよ、と認めてくれる。待つよ、待とうよ、と一緒にいてくれる。

 大丈夫の根拠は、他でもなく“革命”が必ずやってくるから。君の風はいつかに続くし、誰かの風も君に届いてくるはずだから。

 

 

00. 兄弟

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歌詞はこちら 

 そして実は最後にもうひとつ。この曲を紹介して、本記事の〆とします。作品づくりの背景も入ってしまいますが、ぜひとも語らせていただきましょう。


 このアルバム<革命>に入る予定で、入らなかった曲がありました。それがこの『兄弟』です。アルバムのレコーディングに3.11の震災が重なり、この曲だけ独立配信し、収益を寄付するという経緯がありました。
 そのとき、じぶんたちに何ができるのか、を今再び考え「おれたちはじぶんにできることをやろう」と作られたのが、このアルバム<革命>でした。

 その後も、被災地でライブを行ったりとandymoriは“じぶんたちにできること”を続けるわけですが、<革命>を仕上げたことと、配信で『兄弟』を届けることには、たしかなことがあった、とぼくには思えるわけです。

 

 このアルバム<革命>は、“いつでも誰にでも寄り添う輝き”を見いだそうと作られたものでした。そのためにも、日常やこの世界のことと、きちんと向き合おうとしたものでした。

 今をとことん見つめれば、退っ引きならない現実がある。ただ、それでも生きることを見つめよう。どんなときでもじぶんに出来ることがあるし、他の誰かが続けてくれていることがあるからと。

 そのため、震災の前にそのほとんどが作られていましたが、それは震災当時こそ強く必要とした、何か生きる源に触れていたところがあるのでは、とぼくは思うのです。

 

 そして『兄弟』は、一人の男の子が、一人の大切な誰かに向かって語りかける歌。それもまるで<革命>で色々と考え歌ってきたことを、目の前の人に直接伝えるときに、どんな言葉を持って話しかけるか、という思いで集めたような言葉たちです。

「何もない朝に君を見つけたいんだ 何もない僕が君にできること」

「くだらない歌を高らかに唄いたいんだ 何もない僕が君にできること」

「兄弟 目をみてくれよ」

「兄弟 目をみているよ」

 壮平くんは、配信時に「どうぞ、よければ周りの大切な人に送ってください」と添えています。

 


 音楽というのは不思議です。

 ぼくは、この曲オススメだよ、と勧められるのが好きです。「ハルパカ(筆者)は、これとか好きじゃない?」なんて差し出してもらえたら、曲を聞く前にその曲を好きになります。音楽は好きだけど、人くさい音楽がもっと好きなんだと思います。

 そして、ぼくもたまには、そんな人くささを届けたい。メンバーの人柄に触れることはありませんでしたが、滲むものがあったかと思います。

 もはやこの記事を書きながら、発見の度に、じぶんの想いまで書いているような気分になり、それを聞いてもらいたいと倒錯していきました。音楽というのは不思議なもんです。距離感は意識したつもりですが、少し臭うかもしれません(壮平くん、って呼んでいるところとかね)。

 ところどころで鼻をつまんでもらいながらも、いいように風を感じて、よりandymoriの音楽を楽しんでいただくのに役立てばと願って。

 

 

 

 

 

 あー、満足!

 

 

映画『アマデウス』、狂えなかった男の狂気の物語

 こちら、映画『アマデウス』の感想文です。以下、ネタバレ多分なのでお気をつけ。

 

 アマデウスとは、「神に愛されるもの」という意味。天才作曲家モーツァルトヴォルフガング・アマデウスモーツァルト)が、じぶんにつけたミドルネームです。いや別にいいけど、適度に距離は取りたいタイプですね。いいけども。

 この映画は、そんな音楽の神に愛された「天才」モーツァルトと、それを嫉妬する「凡才」サリエリ、ふたりの物語を残された手紙や史実に基づき、想像力を添えて描いた作品…と一見そのようなのですが、しかし、「表現の天才」モーツァルトを通して描かれる、もうひとりの愛された男「評価の天才」サリエリの“葛藤”に光と闇を当てたヒューマンドラマとして見た方が味わい深いと思います。今回のレビューはそんな視点から。

 

  この時代、最も価値がある評価は皇帝やその周辺貴族からのものでした。作中では、モーツァルトへの評価よりも、サリエリへの方が実はずっと上で、彼は権威も金も名声もあるのです。モーツァルトは幼少期こそ宮廷に呼ばれて演奏したりと、その類い稀なる才能を認められていましたが、大人になるにつれ、その音楽の複雑さや新しさは本人の幼稚な性格とも相まり、宮廷の好みと少しずれてゆきます。お金もどんどんなくなり、可愛い奥さんがめっちゃ可哀そうなことになってゆきます。お酒にも飲まれ、とことん底へと落ちていくモーツァルトを、しかし、サリエリはたった一人変わらず「神に選ばし者」だと最上に評価したのでした。

 サリエリモーツァルトの(音楽以外すべての)下品さに何度も失望し、嫉妬を憎悪に膨らまし、神を呪うのですが、一方で、そのつくる曲は天より降りてきた神聖なるものだと受け止め、なんだかんだ応援が口に出てしまったり(サリエリ自身、その発言が嘘なのか本当なのかも分からない)、演奏会には休まず出たりと大変ちぐはぐです。誰よりも音楽を愛し、誰よりもその才能をじぶんのものにと願ったサリエリはまた、すぐ目の前にあるのに届かぬその崇高な音色を誰よりも理解したのです。それらは愛と妬みという反対のベクトルで、文字通り引き裂かれる思いだったでしょう。強烈な恋愛みたいですね。

 

 この物語は、彼が神(とそのもたらす音楽)を信仰する故に敬愛と妬みがはじまり、その葛藤とどう生きていくかにあります。終盤にかけて「私は、私を裏切った神に復習することにしたのだ」とサリエリが言い、それが劇的な展開を迎えるのですが、実のところ彼が神を否定するのはもっと後で、しかも憎しみだけを持ってモーツァルトに迫ることはついにありませんでした。ただ彼は、その両極端に引き裂かれた思いを、ひとつの行動に結び付けることができるアイデアを思い付いたのです。

 それは「その人に自身のレクイエム(死者の為のミサ曲)を作らせる」というものでした。

 それを狂気と呼ぶか、冷静だとするかは、どちらと見ることもできるでしょうが、その残酷な選択はあくまで結果的だったとみるべきでは、とぼくは思います。残酷さに身を任せたかったわけではなく、波打つ感情を現実的に収めようとしただけなのです。

 愛情と憎しみが重なるそのとき、人は感情の置き場に窮します。映画を観ているぼくも、ただその流れに自分を映して見守るだけでした。しかし物語は狂熱の頂点で突然終わりをつげ、彼とともに何もできずに置き去りにされてゆくのてす。その瞬間は、ビリビリと頁が破かれた本の中に永遠に閉じ込められたようでした。

 

 皮肉にもその日、その終わりの直前からサリエリの葛藤は質が変わります。その後、数十年と月日が経っても、彼は依然、自殺に追い込まれるほどの葛藤を抱えたままでした。ただし、そこにはもう神はいないのです。代わりに埋められない空白として残されたのは、モーツァルトの不在でした。

「すべての平凡な者よ、私はあなた方の代表、守護聖人だ。私が赦す。私が赦す」

 焼き付く最後の台詞。周りの目には、彼は狂ったように映ったことでしょう。泣いているのか、笑っているのか、そのぼやけた表情を神父は哀れみと恐怖の目で見つめます。

 ただそれも、それでも彼が人間でいようとしたからでした。人としてのモーツァルトを見つめるようになることで更に取り憑かれたその苦しみを神父に吐露し、絶対的な神を否定し、すべての平凡な物の存在を肯定することで、自らの歴史と存在を支えようとしたのでした。

 

 改めてタイトルを思うと、その「神に愛されるもの」という意はなんだってことになりますね。ずいぶん皮肉につけたもんだ。「才能を与えられたもの」=「神に愛されたもの」とみなせば、モーツァルトだけでなく、サリエリもまたそのひとり。ただ、その一点ということが暴力的だったりする。というかそもそも、その「=」さえ成り立たなければ、こんなに話は辛くなっていない。サリエリは神に愛されず見捨てられたのではなくて、神を愛し、見捨てることができなかったわけですから。

 神なんて、と思える日本のぼくらは楽なもんですね。わあ、日本で生まれてよかったあ、とそんな映画『アマデウス』でした。たしかに名作じゃい。

 

 

 

アニメーション映画『ベルヴィル・ランデブー』、表さないからこそ表せる

 こちら、アニメーション映画『ベルヴィル・ランデブー』の感想文です。

 

 先日のこと。ふとアニメが見たい!と向かった某レンタルショップ、ロボットものと美少女ものばかりがずらずらと並ぶ棚の傍ら、アクの強い画風でひと際目を引いたのが『ベルヴィル・ランデブー』でした。

 

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 この映画は、デフォルト利かせまくりの作画や、特に良い意味でもなく予想を裏切るストーリーと、そのふたつがまず受け入れられるか(見過ごせられるか)どうかが最後まで観れるかの関門かもしれません。ショメ監督が、眉をよせ真剣な面持ちで「観客を裏切りたいんだ。困らせたいんだ」とコメントしているくらいです。茶目っ気精神たっぷりですね。

 この作品は、ストーリー性が重要でないと思ったので、今回はあまりネタバレ気にせず書いていきます。嫌な人はご注意ください。

 

 テーマは「子ども向けアニメ」です。

 

 

音は明るく、描写は暗く

 この映画は、台詞の極めて少ない、半ミュージカル映画です。

 ミュージカルアニメといえば、ミッキーの『ファンタジア』や『トムとジェリー』なんかを思い浮かべますが、それらが意外性を持ちながらも展開に納得がいき気持ちよく楽しめるのに対して、ベルヴィル・ランデブーはもう不可解です。

 家族愛がストーリーを支えていますが、中身があるわけではなく、展開そのもののエンタメ性は弱い。

 たとえば、自転車だけを好み、レースの為に必死に練習に励んできた息子は、この映画でなんの活躍もしません。レースには早々とリタイアし、死んだ魚のような目で機械のように虚構の中でペダルを漕ぎ、おばあちゃんに助けられる。お人形のような彼を助けたところで、嬉しく思えないのに、めでたしめでたしで幕を閉じる。それを、おばあちゃん頑張ったねー家族愛だねーというはバカバカしいのですけど、そうなっている。表面だけのハッピーエンドは、気味が悪くも感じられました。

 それでも疑問を差し置かせ、音楽や絵とその動きで観客を寄せてしまうのがすごいですね。生き物の動きが機械的な代わりに、乗り物なんかは、生き生きと気持ちの良い弾み方をしてくれたりして、好みでした。

 

 

薄暗いのは、現実の世界

 このアニメは「薄暗い現実の世界を、ファンタジーで駆けてゆく」ストーリーでもあります。

 なので、たとえば

 ・息子の努力は報われない

 ・一世を風靡した歌の三姉妹が、老後は変わり果てた風貌で廃れた生活をしている

 といった展開や、マフィアの賭博ビジネス、舞台裏での情事といったことまでちらほら描かれています。あくまで背景としてか、笑いとして置いておくくらいの演出ですので、「見せつけてやる!」という作者側の意図までは感じられません。

 ですが、堂々と描かれています。

 そこで注目したいのが、この映画の「子どもウケ」。

 この映画は、特に子ども向けに作られているわけではありませんが、前述したように、音楽と絵と動きとピエロなギャグセンスで、子どもの方がハマりやすいと思われます。

 実際、世界中で割と評判みたい。

 では、以上の内容は子ども向けアニメとして、どんな意味を持つだろうか? ということを次に考えてみます。

 

 

子どもの為になる映画とは

ベルヴィル・ランデブー』は、子ども向けアニメにはうるさく、ワンピース等の戦闘シーンでさえ厳しく規制されるアメリカでも、多くの人気と高い評価を受け、その年のファインディング・ニモブラザーベアを差し置き、ニューヨークで最優秀アニメーション賞を取ったそうです。

 子どもにとって適切、不適切なアニメとは何か、という線引きは、ぼくの考えが及ばず分かりませんが、許容された理由は、上記の内容が観客にショックを与える形で描かれていないこと(たとえば、暴力や死のシーンは間接的に描かれています)、悪事が魅力的に見えるものでもないこと、そのあたりだと思っています。

 そして、その「現実を隠すのではなく、写していること」が、この映画の子どもにとっての価値になると思います。

 土に触れたり、水に触れたり、家族や友だち、目の前の人と格闘する時期に、絵本や映画を見る意味のひとつは、身の回りにないけど、たしかにどこかにある世界に触れられることでしょう。

  人は年齢により、影響の受けやすさや情報処理能力が異なるので、青年期まで、ある種の情報は制限されるべきです。ただ、それらを全て隠すというメッセージを世の中が発信してしまうと、子どもは社会に対して不信感を持ちます。なぜなら、そこには大人の都合も込められているから。ちょうどぼくらが、メディアの情報が意図的に操作されていると知ったとき、湧き出る自然な感情と同じです。

 変に社会への不安を押し付ける必要もありません。ですが、それらを伝えないことと隠すことは違います。

 

表さないからこそ、表せる

 とはいえ、作者はそこを主軸に置いているわけではないとは思います。なぜばら、はじめに書いたように、作者は製作において大人向け、子ども向けという意識はしていません。そして描かれているのは、大人にとってはありきたりの現実です。子ども限定の意味はそこに込められていないはずです。

 どちらかというと、現実とのリンクは映画の奥行きをつけるためか、読み手の裏をかきたいがために、驚きのためにあえての現実をファンタジー的に用いるか、そのどちらかの為に効果的に使っているなーという印象でした。

 カエルシチューの衝撃とかいうレビューをいくつも見たけど、カエルなんて、結構食べてる国はありますものね。むしろ、作品の生まれたフランスではわりとポピュラーに食べられているもののひとつであり、自虐的な笑いを狙ったものだと思います。

 なので、この感動文は、あくまでこの映画の「こども向け」としての意味を見いだすとすると、という筋でした。でも、こういうはじめから「メッセージを含んでない」形でないと、そういう世界が提示されなくなっている現状があるのかもしれないと思って書いてます。

 裏をかいてやろうという結果が、“たまたま”ではなく"当然”そうなった、とみてもいいかもしれません。

 

 ※追記(いくつか「王と鳥」などオススメしてもらった映画があるので、観ておきます)

 

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小説『コンビニ人間』と、ふつうの人間のあいだ

 こちら、村田沙耶香『コンビニ人間』のレビューです。ついこないだ2016年上半期の芥川賞受賞作品ですね。

 いやー、おもしろかった。

「あそこの古倉節、好きだわー」「白羽はあいつマジさぁ!」なんて話をポテチ片手に、誰かとぺちゃくちゃしたくなる作品。

 キャラクターが不思議な魅力を持ってました。

 

 キャッチコピーの「ふつうとは何か」が、どれくらい人を誘うかは分かりませんが、読んだ後に「ナルホド…!」と頷きました。

 そう、この『コンビニ人間』のテーマは、“ふつう”なのです。

 幼稚園生でも使えるのに、何かと説明しにくい不思議な単語、“ふつう”。

 このレビューでは、読んでいない人にも、読んだ人にも面白い記事を目指しているので、なるべく作品の説明はしないように、

 それでも、

・変人とは、何が変人なのか

・ふつうの人間とは、何がふつうなのか

・変人とふつうの人間は、どう関わっていけばいいのか。

 という部分に踏み込んでみて、それから『コンビニ人間』を改めて読むと最高だぞ、という感じにしたいと思います。

 

 

 キーワードは『共感力』です。どうぞ。

 

共感性羞恥のおかしな絶望

 最近、とあるテレビ番組で“共感性羞恥”というものが取り上げられた。ぼくはツイッターで知ったが、一時、それなりに盛り上がっているようだった。

 なんでも、共感性羞恥とは、『ドラマの恥ずかしいシーンや他人のミスを見たときに、自分が恥ずかしい思いをしたのだと脳が働いて、あたかも自分が失敗したかのように感じる』ということらしい。

 ドラマだけでなく、お笑いやドキュメンタリーでも、実生活の場であっても同じく。個人差にもよるが、まったく見てられない!、という人もいるのだとか。

 

 おかしなことに、番組では該当者はたったの10%と伝えられたが、「わたしも!」「おれも!」と(ツイッター上で)共感する人は、ゆうに10%を超えていた。

 自称該当者の中には、今までモヤモヤしていた感情に『共感性羞恥』という明確な説明が入ることでスッキリした人もいたし、すべての人がそうでないことにショックをもった人もいるようだった。

「みんな大変なんだなー」、となんとなくの労いをぼくは思った。

 

 しかし、さらには曲解して、「他人の辛さを理解できない人が9割もいるのか…ジーザス」と、優しの欠けた世界に絶望している人もいて、それにはさすがに二重の意味で笑った。

「そんなわけはないだろう」と「あなたは他人の辛さは共有できても、辛さを理解できない感覚は共有できないんですね」と。

 

 感情をじぶんに引き寄せるだけの一方的な共感に溢れた世界の方が、むしろ危ういんじゃない?

 このツッコみは、『コンビニ人間』でも感じるところであった。

 

そもそも共感とは

 共感性羞恥のことを、もう少し知ろうと「共感」について少し調べてみたことがある。

 そもそも、ひとえに共感といっても、広いみたいだ。心理学、社会学、神経科学、それぞれの切り口も違う

 

 こんなサイトも見てみたけど、まあ、ぼくの頭じゃ半分もよく分からなかった。

 だけど、共感性羞恥ついて捉え直してみるためなら、十分ではあるので、お勉強の成果をお披露目しよう。そしてこれは、『コンビニ人間』にもつながってくる。

 勝手に整理すると、こんな感じ。これが共感の分類だ。

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 我ながら、すばらしく良く出来た表である。

 

 ぼくらはふつう、これらをまとめて共感力と呼んでいる。基本的に人間はどれも持ち合わせていて、どの部分が強いかどうかは人による。

 共感性羞恥タイプは、このうち、無意識に『否応なく感じてしまう』力が強いタイプといっていいだろう。あるいは『状況に応じて感じ方を選ぶ』力が弱いタイプかもしれない。 

 感じ方をコントロールできる力が特別強い人は、「まあ、ドラマだし」「ドッキリだって本人も承知の上でしょ」と、割り切ることができる。

 こういった分類は度合いの問題なので、線引き次第では、共感性羞恥タイプが1割を越えることもあるだろう。

 

 『コンビニ人間』の主人公、古倉さんは、『状況に応じて感じ方を選ぶ』『無意識に感じてしまう』力が極めて薄いタイプ。

 小説の中では、「変人」や「病気持ち」扱いだが、ただ他人が繊細に感じる部分をじぶんのように感じることができないだけで、その思考回路は非常に論理的。

 その理由には、彼女の場合、他人の感覚以前にそもそもじぶんの感覚が薄いという一因がある。いろんなことに無頓着だ。

 たとえば、どこか文化の離れた国から来たばかりのふつうの人、違う星から来たばかりのふつうの人、生まれてからずっと寝てたふつうの人も、まずは古倉さんのように振る舞うのだろう。

 みんな、そもそもの前提が違う人、なだけだ。

 それでもそういう人を、ぼくらは軽く“変人”と呼ぶ。

 

ふつうの人間の作られ方

 ぼくが『コンビニ人間』の特に好きなところは、人間がどう出来ているのかを、すっきり、且つ、ユーモアたっぷりに描いているところだ。

 コンビニ人間は、他人の感覚に共感できずも、必死に真似をすることで人間の皮をかぶり、社会の仲間入りを果たそうとする。古倉恵子という人間をつくろうとする。

 ふつうの人間は、そんなことはしない。はじめから人間で、いつまでも人間だ。

 

 …でも、はたして本当に?

 

・ふつうの人間はどのように作られるのか

・何があればふつうの人間なのか

・変人古倉さんが、コンビニ(という狭い社会)だからこそ、18年いてもなれなかったもの

・変人古倉さんが、18年いたからこそ、そこがコンビニ(という狭い社会)だからこそ、ようやくなれたもの

 

 奇妙ながらもとことん現実的な、このあたりの展開は不気味で最高だ。

 

 物語のラストで彼女は、彼女が本当に欲していたもののありかに、気づく。

 生まれて初めての声を聞く

 全然、泣くような小説じゃないんだけど、あとでふと、その月日の意味を思うと、まじでジーンとくる。

 

 

分かりあえない、あいだを見つめる

 今回、ぼくがこんな読み方をした理由となる、いわば元ネタをふたつ。

(人間は、こうしてつくられますね!)

 

「障害というのは、少数者と社会の間にあるズレのことです」

 の一言がすべて。

 

 そして、演劇作家の視点で、コミュニケーションのあり方を問う、平田オリザさんのこちらの名著。

 ぼくの素晴らしき表にある『状況に応じて感じ方を選ぶ』『無意識に感じてしまう』『相手の感じ方を推測できる』のうち、

 コミュニケーションにおいて一番大事な力ってどれ?って疑問が、スッキリする。

 

 共感性羞恥の話をはじめにしたのも、これらの視点が欠けていた発現を多く耳にしたからだ。相手の気持ちがじぶんのように感じられないことは、冷たい社会でも何でもない。

 むしろ、その欠落や違いを否定した社会の方が、人を排除することになる。

  

 分かり合えないことから、間を見つめること。つないでいくこと。

 そこからスタートすると、古倉さんには、ふたつのハッピーエンドがあったように思う。

 彼女がそのうちひとつを選べて本当に良かった。

 だけど、社会全体にとっては、もうひとつのハッピーエンドしかなかったのでは、とも思う。

 

映画『めがね』の“見えない人にだけ見えるもの”

 こちら、映画『めがね』のレビューです。シン・ゴジラ祭からの市川実日子さんが見たい!という、純粋な動機でDVDを借りてきました。満足です。はい。

 今回の感想は

「この映画で作者が描いたものとは何か」

 に絞って書きます。

 『めがね』は観てると温泉に入っているような心地になれる映画なので、この感想が、入浴前の軽いジョギングか、風呂上がりのアイスか、それくらいになったらいいなと思います。

 では、どうぞ。

 

皮肉的に描かれた、お手本

 主人公が訪れる、とある島の民宿『マリンパレス』。その女将さんが言うこんな感じのセリフがある。

「ここではみんなで協力しあって、土に触れて、できた野菜をみんなで味わうんです。これほど、美味しいものはない。分かるでしょう?」

 フレーズだけ切り取ると、すんなり共感できるものだ。自ら手がけた野菜は、本当にうまい。

 しかし、主人公はそれを聞き、うんざりとした顔で、立ちどころにその場を離れてしまう。そして、フレーズのみならず映像で見ている観客にも、こんなところ嫌だな、と思えるようになっている。

 ここは、この映画で、唯一皮肉として描かれているシーンなのだ。

 女将さんを演じる薬師丸ひろ子さんは、ハイトーンでいかにも薄っぺらく聞こえる言い方をするし、その畑で働くものは顔さえ映されずのっぺらぼうで、まるでロボット。それらの構図だけで、観客も場に辟易してしまう。

 でも、なぜ一見、美徳のお手本のようなこの台詞は、皮肉的に描かれたのか。

 それは、マリンパレスが、この映画自体のスタンスと最も反するものだったからだ。

 

スタンス真逆の「○○って最高!」

 この映画は、「これこそ最高だよね」「これこそが大事だよね」というメッセージを極力避けている。

 島の住人の習慣を、いぶかしげに見ていた主人公が度々尋ねる「○○は、しなくてはいけないんですか?」に対して、周りの者はみな「別にしなくてもいいですけど」と、一切の強制をしない。あっても「これが、うまいんですよ」「どうぞ、入りませんか?」くらいの、いつだって一線引いたお誘いだ。

 この映画のスタンス、それは徹底して、他人に対しては“どっちでもいいんですよ”、だけど“ここで飲むビールは最高ですね!”である。

 一方、マリンパレスの女将さんは、絶対的な価値観があるように他人に話す。なんとも巷のオーガニック信者だとか、ああいう人たちを思い浮かばせる。

(ここからはあくまでぼくの自然観かもしれないが)信仰と自然は真逆のものだ。自然は物理上、なしえるあらゆる選択をしてきたものであって、方向性これ一本だという信仰とは異なる。人工物を拒否した自然信仰は、自然を拒否するのと変わらない、という可笑しさがある。

 開放を求めるようで窮屈へ向かう、バカバカしいようだけど、余裕のないときこそ陥りやすい。

 

 この『めがね』の監督は荻上直子さんで、かの有名な『かもめ食堂』とほぼ同じキャストで撮られている。どちらも“のんびり”と“暖かい”雰囲気でウケている映画と、作りも似ている。なのに『かもめ食堂』を観て絶賛していた人たちの多くにとっては、『めがね』は物足りなく感じるらしい。

 しかし、上までのことを考えてみると、当然の成り行きだろう。

『かもめの食堂』を見て、その伸びやかできれいな生活を「やっぱり丁寧な暮らしって大事だよね!!!」と素直に憧れた人たちにとって、『めがね』で「いや、丁寧じゃなくても良いんだけどね」と言われるのは、少し冷めることだ。

 しかし、そう冷めるように作られている。前作のヒットをなぞるのではなく、その感じ取られ方に、ちゃちゃ入れるように作られているのだ。

 

見えない人にだけ見えるもの

 映画のタイトルにもなっている“めがね”。主要登場人物が揃って、おしゃれ”めがね”さんなのには、どんな意味があるのだろうか。

 めがねとは、見えない人にだけ見えるものでもある。裸眼で見えている人が見えていなく、住人たちをはじめとした見えていないめがね勢だからこそ見えている。

 裸眼の人の、その見えていると思っていたものが、たとえば美徳だとすると…。(ややこしい?)

 

 映画も終盤、島を出ることを決意した主人公は、車で港まで送ってもらう際に、窓からめがねを落とす。しまった!と思うものの彼女はしかし、まあ、いいやと開き直る。

 もたいまさこさんの

「大事なことは、焦らないこと」が蘇る。

 ときに、大事に思っていたものを、手放してみること。ぼくらはそのときようやく、じぶんにとって大事なものを見つめる“めがね”を手に取るのかもしれない。

 のんびりってしちゃうけど、まあ、ね、とまるで晴れた空に向かって言うように、主人公たちは結末へと向かう。

 

海老とビールと、かき氷。

 ぼくのいちばんお気に入りのシーンは、伊勢海老をみんなで一匹丸ごとづつ、もしゃもしゃとかぶりつくシーンだ。

 見ていて、不思議と心地よかった。

 そのエビは、近所から分けてもらったのにしばらく忘れられていたり、茹で上げたものを他に特に合わせるものなく食べていくという、見方次第ではぞんざいな扱いをされていた。

 「うわあ、そんな贅沢なあ…!」「なんで忘れるよエビを!」と貧乏面かまして、羨ましく見ていたぼくだけど、もりもり殻を破っていくのがしばらく続くと、だんだんバカバカしくなってきた。

 贅沢が良いとか、シンプルが良いとか、丁寧が良いとかそういうものではなく、美味しく食べられればそれでいい。

 海老でも、ビールでも、かき氷でも。たそがれる、その時間に寄り添うものを。

 

 凝った心が、気持ちよくほぐれていく映画でした。

 まこと結構な、お湯加減で。

 

 

 

めがね(3枚組) [DVD]

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